玉虫日記 江戸まさり「佐原の大祭」
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2005.07.17 (Sun)

江戸まさり「佐原の大祭」



佐原の市街を二分するように流れる「小野川」を境に東側を本宿、西側を新宿と呼びますが、
佐原の大祭とは、7月に行われる本宿の八坂神社の祇園祭りと10月に行われる新宿の諏訪神社の秋祭りのことを指すそうです。年に二度のこのお祭はお神輿それからたくさんの山車が町内を練り歩きます。
山車、幣台の周りは、注連縄や金糸銀糸の天幕が張りめぐらされており、これは幣台が「宮座」を表しているからだと言われています。「宮座」とは、部落の祭祀組織で、特定の家に属する者、または氏子の一定年齢に達した男子(女子を含む所もある)によって構成され、順番に定められた頭屋(とうや)が中心となり祭祀を行うことで、中世、畿内に多かったとされます。
幣台のいたる所に欅材の彫刻がはめ込まれていますが、彫刻は、彩色はされておらず、龍・獅子・花鳥や日本・中国の故事に則られています。
 また山車の上には神話の神様や時代の英雄を模した4~5mの人形が飾られて居り、この人形は、江戸時代~大正時代の名人の人形師により作られたものや町内の人たちが麦・稲藁で作った鯉や鷹などの人形で、どれも非常に大きく、また精巧に作られています。
画像の神さまは建御雷之男神(武甕槌命)で鹿島神宮にお祀りされている神ですが、
建御雷之男神(たけみかずちおのかみ)は古事記・日本書紀において、経津主神(ふつぬしのかみ)とともに、葦原中国平定を成し遂げたとされています。(古事記や旧事本紀では、この神様は経津主神と同一とされています)千葉県と茨城県の県境付近に、対をなすように、香取神宮と鹿島神宮が建っていますが、この香取神宮にお祭りされているのが経津主神、鹿島神宮にお祭りされているのが建御雷之男神です。さて、鹿島神宮の御祭祀については、常陸国風土記・香島の郡のところに面白い一文がありましたので引用します。
清と濁とが集まることができて、天と地とがひらけはじめるより前に、諸祖天神が八百万の神たちを高天の原につどい集められた。その時、諸祖神が告げていうには『いま、わが御孫命が豊葦原水穂之国を治めにお降りになる』と仰せられた。このとき高天の原から降って来られた大神は御名を香島の天の大神と申し、天にてはすなわち日の香島の宮と号し、地にてはすなわち豊香島の宮と名づける。
常陸風土記

佐原の幣台には、方向転換のための換向装置はなく、方向転換は、無理に車輪を滑らせて回ります。そのために車輪は、径に比べて厚みが厚く、またシャフトも太く丈夫にできているそうです。
こちらのお祭は年齢に応じた役割分担がありお囃子は壮年以上、舵取り・曳廻し・曲曳きなど体力の必要な山車曳きは若者が分担し迫力のある祭りになっているそうです。
心地良さ気に横笛を鳴らすこのおじさんたちも嘗ては大きな山車を引いたのでしょうね。

お囃子は山車の中と小野川「船の上」からの和音~(*^_^*) だそうですが、お神楽と遭遇すると鳴り物は音を止め山車も路肩に待機するのですとか・・
見事な提灯♪
暑い夏セミの鳴き声とともに聞く祭囃子は暑さを増幅させますが暑さをそれ以上の熱気で凌ぐお祭のパワー!佐原の大祭、幣台・祭りは、野性的なエネルギーに満ちあふれた祭りですね。

おしまいに佐原の大祭についてこちらのサイトを参照させていただきました。
そして今回も素晴らしい画像でお祭を紹介くださったのは花の美術館館長しゃんどうもありがとうございました。

※佐原の大祭を今回調べるにあたって未消化に終わったのはこのお祭の起源。
図書館での文献あるいはネットであれこれ検索してみたものの判らず仕舞に終わりました。
ただ祇園会ということでしたので、京都祗園祭についてその起源を遡ったところ以下のような文章が記載されていました。
 この祭は八坂神社の祭礼で、元来は祗園御霊会(ぎおんごりょうえ)と呼ばれていました。
 平安初期の貞観十一(869)年に疫病が流行した時、疫神(御霊)の退散を祈願して、当時の国の数にちなんだ66本の矛(ほこ)を立てて八坂神をまつった神輿を神泉苑に届け、御霊会という疫病退散の祈願を行ったことが始まりとされています。
 長保元(999)年に無骨という雑芸者が大嘗会(だいじょうえ)の標山に似せた作山(つくりやま)を祭列に出したのが、現在の山の起こりとされています。
 室町時代には、山鉾が祭礼の中心となり、15世紀中ごろには総数58基に及びました。
 応仁の乱で途中数十年のあいだ中断されてしまいますが、明応5(1496)年には復活し、このころから官祭的性格がうすれて町衆の祭りとなりました。

京都と佐原を一括りにしてしまうのは短絡に過ぎますが参考までにご覧ください。
19:02  |   |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

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